韓信part2


まゆみの英語勉強法「斉を占拠~酈食其に数奇な悪縁」

劉邦(英会話訳 Liu Bang)は韓信(英会話訳 Han, Shin)を斉に向けて送り出した後、酈食其(れきいき)という説客を斉に派遣し、降伏を促します。
韓信の軍が迫っていた影響もあり、斉はこの降伏勧告を受け入れます。
しかしこの命令には問題があり、劉邦はどうしてか韓信に対し、事前に酈食其を派遣したことを知らせていませんでした。
このため斉の降伏の知らせを受けた韓信は進軍をいったん停止しますが、蒯通(かいつう)という弁士にそそのかされ、斉への侵攻を再開します。
その時の蒯通の言い分は以下の様なものでした。
「酈食其は弁舌だけで斉の70城を降しましたが、このままだと韓信様の功績は儒者に過ぎない酈食其に劣ることになります。(韓信がこれまでに降した城は50城であったため)進軍停止の命令は出ていないのだし、このまま攻めこむべきです」
実際には韓信軍を恐れたからこそ斉は降伏したわけで、韓信の功績と言えなくもないのですが、韓信はこの蒯通の言葉を受け入れ、斉に攻め込みました。
そして降伏したことで油断していた斉の諸城は簡単に陥落し、韓信は斉の占拠に成功します。
だまし討ちを受けた結果となり、怒った斉の王は逃亡する前に酈食其を釜で煮殺してしまいました。
こうして韓信は酈食其を犠牲とすることで斉を制圧しました。
しかしこの時の韓信の行動が劉邦に咎められることはありませんでした。
もともとは劉邦が韓信に無断で、二重に命令を出したことに問題があったからです。
もしかしたら、劉邦は韓信が鮮やかに戦功をあげ続けることに危惧を覚え、酈食其に外交的な成果をおさめさせることで、韓信の功績を抑制しようと考えたのかもしれません。
一方で韓信は先に、劉邦に理不尽な形で自軍を奪われていましたし、蒯通のそそのかしに乗ったのは、その意趣返しの思惑があったとも考えられます。
この頃から劉邦と韓信の関係には、軋みが生じ始めていたと見ることもできるでしょう。
臣下があまりに大きな功績を上げると、やがて主君を凌駕してしまう可能性もあり、劉邦は優秀すぎる韓信の存在を、だんだんと恐れつつあった、ということでもあります。
この劉邦の恐れが、やがて韓信の身に危機をもたらすことになります。

「半渡に乗じて龍且を討つ」

韓信(英会話訳 Han, Shin)に敗れた後、斉の残党はこれまで敵対していた項羽(英会話訳 Xiang Yu)に救援を求めます。
斉を押さえる好機と見て、項羽は配下の龍且と周蘭を将として、20万の大軍を派兵します。
周蘭は持久戦を行うよう龍且に進言しますが、龍且は韓信が臆病者だと侮っており、正面から野戦を挑みます。
これに対して韓信は、またも川を活用した作戦で迎え討ちます。
韓信は広くて浅い川の周囲を戦場として選び、決戦の前夜に川の上流をせき止めて水位を下げておきます。
そして戦場で龍且と対峙すると、機を見て韓信は退却を始めます。
もとより韓信を侮っていた龍且は疑いもなく追撃を開始しますが、これが韓信の罠でした。
龍且の軍勢の半分ほどが川を渡ったのを見て、韓信は前夜に築いておいた堤防を切り、川を増水させ、残りの半分が渡れないようにします。
川に押し流された兵もおり、戦力が半分以下になった龍且の軍勢を包囲して攻撃をしかけ、これを壊滅させました。
こうして韓信を侮った龍且は川の増水によって退路を絶たれて捕虜となり、処刑されてしまいました。

このように、韓信の戦術は

・川を活用して敵の意表をつく

・自分を侮らせて敵の油断を誘う

このふたつの原則をもって、状況に応じて柔軟に作戦を立案していたことがうかがえます。
韓信はもともとは浮浪者同然の身分で、臆病者だという風評がありました。
これらを払拭することもなく、それを利用して戦術に組み込めるほどに韓信は怜悧な精神を持っていたことになります。

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「斉王となり、項羽の勧誘を受ける」

こうして斉を完全に制圧した韓信(英会話訳 Han, Shin)は、支配者が変わって不安定になった情勢を鎮めるため、仮の王になりたいと劉邦に申し入れます。
項羽と直接対決を続けて疲弊していた劉邦(英語訳 Liu Bang)は、韓信の要求に激怒しかけますが、軍師の張良(英語 ChoRyo)になだめられ、韓信の申し出を受け入れます。
張良はここではねつけると、名声と大きな軍事力を得た韓信が独立してしまう危険性があると劉邦に進言したのです。
劉邦はこれを受けて韓信に「仮の王などと言わず真の王となれ」と告げ、韓信は大将軍から斉王へとその地位を進めます。
この時の韓信はまだ27才で、若くして異例の大出世を遂げたことになります。
そしてその韓信の元に、今度は項羽(英語名 Xiang Yu)から和睦の使者が送られてきました。
項羽もまた、かつては歯牙にもかけていなかった韓信が、もはや無視できない存在になっていると認識したことになります。
武渉という使者がやってきて、「劉邦は項羽に見逃されても裏切って攻めこむような信頼のできない人物なので、従わないほうがよいでしょう。
漢から離脱して、楚と共に戦いましょう」と韓信に勧めます。
これはかつて劉邦が項羽の怒りをかって殺害されそうになった時、配下のとりなしによって見逃されたことを指しています。
にも関わらず劉邦(英語訳 Liu Bang)は項羽に反乱を起こしたので、信頼できる人物ではないという指摘でした。
武渉はそのように説得しますが、韓信(英語 Han, Shin)は項羽に仕えていた時代に取り立ててもらえなかったことを恨んでおり、大将軍、そして斉王に取り立ててくれた劉邦に恩義を感じていたため、これを拒絶します。
その後、さらに弁士の蒯通から「独立して漢(劉邦)・楚(項羽)・斉(韓信)の三国で天下を三分し、漢・楚の両者が争って疲れたところを討ち破って天下を得るべきです」と、まるで三国志の諸葛亮のごとき進言を受けますが、韓信はこれも拒絶し、劉邦に従う道を選びます。
この進言によって劉邦に憎まれることを恐れた蒯通は、韓信の元を出奔します。
この時の決断が、後に韓信の身に不幸を招くことになります。
劉邦にとっては幸いなことでしたが、こちらは張良の進言を受け入れて韓信に斉王の地位を与えたことが、その幸運をもたらしたことになります。
このように、劉邦は人の有益な助言を素直に受け入れるたちであり、それが彼が王者に押し立てられた主な要因でした。

「項羽の死」

韓信(英会話訳 Han, Shin)が斉王となった頃、劉邦と項羽の戦いは最終局面を迎えていました。
両者は共に疲弊しており、和睦して天下を二分することでいったん戦いを終結させることにします。
しかし劉邦はこの約束を破り、退却しようとする項羽(英会話訳 Xiang Yu)を追撃しました。
このあたりの動きを見るに、項羽の使者・武渉が言っていた「劉邦は信用できない人物だ」という評は、間違いだとも言えないでしょう。
劉邦(英語訳 Liu Bang)はこの時、韓信や彭越(ほうえつ)といった配下の将軍たちに参戦を促しましたが、戦後の報奨を約束しなかったため、彼らはいずれも戦場にやってきませんでした。
このため項羽を討ち取り損ねた劉邦は怒りますが、またも張良(英語 ChoRyo)になだめられます。
「劉邦はすでに天下の半分を得ており、十分な成功を収めている。にも関わらず戦後の報奨を約束しないのは、劉邦が物惜しみをしているのだ、と諸侯は見ています」と張良は韓信たちの気持ちを説明します。
劉邦からすれば「項羽を倒せるかどうかもわからないうちに、大きな報奨の約束などできない」と考えていたのですが、配下の立場からみるとそれは違っていたわけです。
この進言を受け入れた劉邦は韓信に領土の追加と斉王の地位を保証し、参戦を再度促します。
今度は韓信もその他の将軍たちも劉邦の元に集結し、数十万にも及ぶ圧倒的な大軍をもって、ついに項羽を垓下(がいか)の地に追い詰めます。
ここで戦力の大半を失った項羽は撤退しますが、やがて烏江のほとりで自決し、天下は劉邦のもとに統一されました。
軍事的には韓信の功績が最も大きく、戦後に大きな報奨を受けることになります。
しかし項羽という最大の敵がいなくなったいま、劉邦の政権にとって、最も脅威となりうるのが韓信の存在なのでした。

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「楚王となる」

韓信(英会話訳 Han, Shin)は戦後になると、斉にかわって楚の王に任命されます。
楚は韓信の故郷ですし、これまでの覇王であった項羽(英会話訳 Xiang Yu)が治めていた土地ですので、栄転であるといえます。
しかし斉よりは城の数が少なく、指揮できる軍の数が減らされていました。
栄転ではあるものの、その戦力は削る、という措置であったことがうかがえます。
故郷の淮陰に凱旋した韓信は、食い詰めていた時に食べ物を与えてくれた老婆に、使い切れないほどの大金を与えます。
そして自分を脅して股をくぐらせたかつての少年を呼び出し「お前を殺すのは簡単だったが、それで何を得られるわけでもない。
我慢をして股をくぐったからここまで出世できたのだ」と告げます。
そして自分の今の力を示すように、彼に中尉という官職を与えました。
この人物がどう反応したのかまでは伝わっていませんが、韓信に呼び出された時には処罰されはしないかと冷や冷やしていたことでしょう。
また、途中まで自分の面倒を見ていた亭長には、「世話をするなら最後まで面倒をみよ」と告げ、わずかな金銭を与えただけでした。
この頃が韓信の生涯の絶頂期でしたが、しかし楚王の地位はわずか一年で剥奪されてしまいます。

「淮陰侯に格下げされる」

項羽の死の翌年、同郷の友人で、項羽配下の将軍であった鍾離昧(しょうりまい)を匿っていたことから、韓信に謀反の疑いがあると訴え出る者がいました。
これには韓信(英会話訳 Han, Shin)の軍才から生じる恐れと、短期間で出世したことに対する妬みの感情などが原因となったようです。
この疑惑に弁解するため、韓信は鍾離昧に自害を促します。
この時、鍾離昧は韓信に「次は貴公の番ですよ」と言い残して自害します。
鍾離昧の予言通り、その首を持って劉邦の元に出頭した韓信は捕らえられ、楚王から淮陰侯に格下げされてしまいます。
これによって韓信は意のままに動かせる軍隊を失い、いくらかの領地を持つだけの、ただの諸侯になってしまいました。
これ以降の韓信は屋敷にこもって暮らすようになり、劉邦(英語訳 Liu Bang)への忠誠心も失ってしまいます。
自分のおかげで天下が取れたのに、この仕打ちはありえない、と韓信は憤ったことでしょう。

「謀反を企むも捕縛され、処刑される」

それから5年が過ぎ、韓信(英語 Han, Shin)は本当に劉邦(英語訳 Liu Bang)に対して謀反を起こします。
しかしこの時には、それを成功させる条件はとうに失われていました。
計画を下僕に密告され、韓信の計画は劉邦の妻・呂氏の知るところとなります。
この時、劉邦は韓信の策略によって都から反乱の鎮圧のために遠征に出ており、相国(現代で言う首相)の地位にあった蕭何がこの事態に対応します。
蕭何はかつて韓信が大将軍に取り立てられるきっかけを作った人物であり、韓信は恩義を感じていました。
韓信はその蕭何の計略によって宮殿におびき出され、そして捕縛されてしまいます。
策に長じた韓信でしたが、蕭何(英語訳 Xiao He)には恩もあり信用していたため、計略に乗せられてしまったのです。
そしてすぐに宮廷内で処刑されました。
韓信は死の間際に「蒯通の勧めに従わなかったことが心残りだ」と言い残しています。
もしも斉王の時代に独立していれば、このような結末を迎えることはなかったでしょう。
享年は35でした。



韓信 part1